ムッシュ・ぺぺ 於
左から オーナーシェフの西川靖子さん、私、ゆうこりん、みかりん、みつよさん(妻)
中谷堂 の大将と
2008年なら燈花会も早、10回目を迎えるそうで、誠におめでとうございます。
よくぞここまで育てられたものだと、関係者の皆さんのご努力に、心から敬意を表します。
(ありきたりの言葉ですが、これ以外の言葉が私には見つかりません。)
このなら燈花会が、今後益々洗練され、世界一の公園で国際的に評価される夏の風物詩となり、それこそ千年先まで続きますよう、祈念します。
さて、私は毎年、このイベントを個人的にも大いに楽しんでいます。
今年も家内と浴衣で行こうと決めておりました。最近は、若い人達の間で流行してきたんでしょうか? 随分多くの浴衣姿が見受けられようになりました。やっぱり、灯火会には、バッチリ似合いますよ。それに蒸し暑い日本の夏の夜には、結構涼しくも感じます。私なんか、汗かきですから勿論汗はかきますけれど、袖口や裾に抜ける風ほど心地よいものはないですよ。灯火会には、絶対お勧めです。(但し、足元には気を付けて! 長距離を歩くときは、下駄ではシンドイ。そんな時は、足袋を履くか、シューズにしましょう。)
今回は、我が事務所スタッフのゆうこりんとみかりんが、企画してくれました。私と妻のみつよさんを含む3人の女性との一行となりましたが、やはり女性が3人よれば何とかで、ズーっと喋りっぱなし。話題は、アッチコッチに飛びっぱなし。静かだと思ったら、飲みっぱなしに食べっぱなし。と大変楽しゅうございました。
その楽しいひと時はムッシュ・ぺぺで過ごさせていただきました。古都奈良の公園の中にありながら、周りにとても良くマッチングした仏蘭西料理屋さんで、センスの良さが光っています。今回は、飲み物と様々な小皿の料理をビュッフェ方式でいただきました。どの小皿にも、丁寧に手が入れられた凝ったお料理がのっていて、とても美味しかったです。
実は、ゆうこりんと西川オーナーシェフが知り合いの仲だったそうで、勿論私にもご紹介いただいたのですが、西川さんは、品があり、知性のにじみ出た方で、素晴らしい人だと拝察いたしました。早速、家に帰ってインターネットでムッシュ・ぺぺを検索しましたが、なるほどなと頷いた次第です。なんと、西川さんは、料理家であり、立派なピアニストでもあり、大変才能豊かな人でありました。今後も、その持てる才能を大いに発揮していただいて、奈良の発展のためにも、ご隆盛なさいますことを、ご期待申し上げます。
夕食後、皆で、あちこち散策し、いつもながらに、風景を楽しみ、おしゃべりを楽しみ、三条通りへと帰ってくると、やっぱり人だかりがありました。中谷堂です。いまや、中谷堂のオーナー、餅づき名人の中谷さんは、全国区で有名になられました。すっかり嬉しくなって、二人のツーショットをお願いしてしまいました。9時45分を過ぎたあたりから、多くの店屋が店仕舞いを始めても(私は、燈火会が終わったそれからが、むしろお店は繁盛するんじゃないのかなと思っていますが)中谷堂では、客の流れが絶えることなく、オーナーはじめスタッフ一同が最後まで一生懸命ガンバっておられたのが印象的でした。
2008年8月10日日曜日
フェノロサの講演 「奈良の諸君に告ぐ」
今日は、母の命日(4年目)にあたります。一昨日、淨教寺の院主さん(島田和麿さん)にお越しいただき、自宅で祥月法要をつとめました。法要後、いつものように院主さんから有難い法話を数々いただいた中で、奈良県民にとって大変興味深いお話を一点紹介させていただきます。
それは、日本の恩人、日本人よりも日本美術を愛した男といわれる、アーネスト・F・フェノロサが岡倉天心を通訳として、淨教寺本堂で講演をしたという事実です。 それは、今から120年前の明治21年(1888年)6月5日の出来事でした。
フェノロサ氏は、1878年夏に来日し、9月から東京大学で哲学・経済学を教えました。来日後すぐに、仏像や浮世絵など様々な日本美術の美しさに心を奪われ、古美術品の収集や研究を始めると同時に、鑑定法を習得し、全国の古寺を旅しました。やがて彼はショックを受けます。日本人が日本美術を大切にしていないことに。明治維新後の日本は盲目的に西洋文明を崇拝し、日本人が考える“芸術”は海外の絵画や彫刻であり、日本古来の浮世絵や屏風は二束三文の扱いを受けていました。特に最悪の状況だったのが仏像・仏画。天皇や神道に“権威”を与える為に、仏教に関するものは政府の圧力によってタダ同然で破棄されていました。また全国の大寺院は寺領を没収されて一気に経済的危機に陥り、生活の為に寺宝を叩き売るほど追い詰められていました。(廃仏毀釈 はいぶつきしゃく)
今では信じ難いですが、『阿修羅像』で有名な奈良興福寺の場合、寺領の没収と同時に120名の僧が神官に転職させられ、五重塔が当時2円(現価25,000円位)で売りに出されました。五重塔は焼かれる直前に周辺住民が火事を恐れて阻止したといわれています。また、別の寺では政府役人の前で僧侶が菩薩像を頭から斧で叩き割って薪(たきぎ)にしたという話もあるほど、仏教界は狂気染みた暴力に晒されました。
フェノロサは寺院や仏像が破壊されていることに強い衝撃を受け、日本美術の保護に立ち上がりました。自らの文化を低く評価する日本人に対し、如何に日本の芸術・仏教が素晴らしいかを事あるごとに強烈に訴えました。1880年(27歳)、フェノロサは文部省に掛け合って美術取調委員となり、学生の岡倉天心を助手として京都・奈良で古美術の調査を開始しました。
こうした活動を通してさらに日本美術の魅力の虜になった彼は、1881年(28歳)、滅亡寸前の日本画の復興を決意し、日本画家たちに覚醒を求める講演を行ないます。「日本画の簡潔さは“美”そのもの。手先の技巧に走った西洋画の混沌に勝ります」「日本にしかない芸術があるのです!」。西洋文明へのコンプレックスに支配されていた日本人はビックリ。新政府は日本が芸術の世界では一等国と勇気づけられ、フェノロサの演説を印刷して全国に配布しました。1888年(35歳)、岡倉天心は欧州の視察体験から、国立美術学校の必要性を痛感。そして日本初の芸術教育機関、東京美術学校(現・東京芸大)を設立し初代校長となり、フェノロサは副校長に就き、美術史を講義しました。(「日本人よりも日本美術を愛した男・フェノロサ」参考)
その年、明治21年(1888)六月五日、税所篤知事から奈良に招かれて、淨教寺の本堂で講演をしました。
大津昌昭著の『森川杜園の生涯』から (フェノロサの講演の要旨を極簡単に抜粋)
近来となって、古物が探求され、奈良というところも知られるようになりましたが、もしもあの正倉院の御物がなかったならば、日本の古代文化がいかなるものであったか、ほとんど知られないままだったのではないでしょうか。それら日本の美術は、ヨーロッパのものとすこしも劣るものではありません。つまりアジアの仏教美術は、この奈良において、完全なるものに仕上がったのだと、わたくしは信じて疑わないのであります。 奈良は、宗教や美術のみならず、ほかにも多くのことで大陸と関係をもってきました。しかし、多くの国は滅亡し、あるいは戦乱を経て、もはや昔の面目を残していないのであります。当時の文物は、日本に存在するのみであります。奈良は、じつにじつに中央アジアの博物館と称してよいのであります。ですから、願わくば、ヨーロッパ人の真似ばかりせずに、精神を高潔にし、日本人たることを嫌うような風潮が愚弄であることを世に知らせ、日本人として誇れる高い文化の創造を切望してやまないのであります
最後にわたくしが奈良のみなさまに望みますところは、ここでみなさまが奮発し、率先して、日本美術復古の唱導者となってほしいことであります。この奈良の古物は、ひとり奈良という一地方の宝であるのみならず、じつに日本の宝でもあります。いや、世界においても、もはや得ることのできない貴重な宝なのであります。ゆえにわたくしは、この古物の保護保存の大任は、すなわち奈良のみなさんが尽くすべき義務であり、その義務はみなさまの大いなる栄誉でもあると思うのであります。この古物の保護保存を考えずして、いたずらに目の前の小利に惑わされてしまっていては、まことにまことに惜しいことであり、それではこの奈良の価値をまったく理解していないのと同じになってしまうのではないかと、わたくしはそう考えるのであります。
詳しくは2008年6月今月の法話を是非、お読みください。
それは、日本の恩人、日本人よりも日本美術を愛した男といわれる、アーネスト・F・フェノロサが岡倉天心を通訳として、淨教寺本堂で講演をしたという事実です。 それは、今から120年前の明治21年(1888年)6月5日の出来事でした。
フェノロサ氏は、1878年夏に来日し、9月から東京大学で哲学・経済学を教えました。来日後すぐに、仏像や浮世絵など様々な日本美術の美しさに心を奪われ、古美術品の収集や研究を始めると同時に、鑑定法を習得し、全国の古寺を旅しました。やがて彼はショックを受けます。日本人が日本美術を大切にしていないことに。明治維新後の日本は盲目的に西洋文明を崇拝し、日本人が考える“芸術”は海外の絵画や彫刻であり、日本古来の浮世絵や屏風は二束三文の扱いを受けていました。特に最悪の状況だったのが仏像・仏画。天皇や神道に“権威”を与える為に、仏教に関するものは政府の圧力によってタダ同然で破棄されていました。また全国の大寺院は寺領を没収されて一気に経済的危機に陥り、生活の為に寺宝を叩き売るほど追い詰められていました。(廃仏毀釈 はいぶつきしゃく)
今では信じ難いですが、『阿修羅像』で有名な奈良興福寺の場合、寺領の没収と同時に120名の僧が神官に転職させられ、五重塔が当時2円(現価25,000円位)で売りに出されました。五重塔は焼かれる直前に周辺住民が火事を恐れて阻止したといわれています。また、別の寺では政府役人の前で僧侶が菩薩像を頭から斧で叩き割って薪(たきぎ)にしたという話もあるほど、仏教界は狂気染みた暴力に晒されました。
フェノロサは寺院や仏像が破壊されていることに強い衝撃を受け、日本美術の保護に立ち上がりました。自らの文化を低く評価する日本人に対し、如何に日本の芸術・仏教が素晴らしいかを事あるごとに強烈に訴えました。1880年(27歳)、フェノロサは文部省に掛け合って美術取調委員となり、学生の岡倉天心を助手として京都・奈良で古美術の調査を開始しました。
こうした活動を通してさらに日本美術の魅力の虜になった彼は、1881年(28歳)、滅亡寸前の日本画の復興を決意し、日本画家たちに覚醒を求める講演を行ないます。「日本画の簡潔さは“美”そのもの。手先の技巧に走った西洋画の混沌に勝ります」「日本にしかない芸術があるのです!」。西洋文明へのコンプレックスに支配されていた日本人はビックリ。新政府は日本が芸術の世界では一等国と勇気づけられ、フェノロサの演説を印刷して全国に配布しました。1888年(35歳)、岡倉天心は欧州の視察体験から、国立美術学校の必要性を痛感。そして日本初の芸術教育機関、東京美術学校(現・東京芸大)を設立し初代校長となり、フェノロサは副校長に就き、美術史を講義しました。(「日本人よりも日本美術を愛した男・フェノロサ」参考)
その年、明治21年(1888)六月五日、税所篤知事から奈良に招かれて、淨教寺の本堂で講演をしました。
大津昌昭著の『森川杜園の生涯』から (フェノロサの講演の要旨を極簡単に抜粋)
近来となって、古物が探求され、奈良というところも知られるようになりましたが、もしもあの正倉院の御物がなかったならば、日本の古代文化がいかなるものであったか、ほとんど知られないままだったのではないでしょうか。それら日本の美術は、ヨーロッパのものとすこしも劣るものではありません。つまりアジアの仏教美術は、この奈良において、完全なるものに仕上がったのだと、わたくしは信じて疑わないのであります。 奈良は、宗教や美術のみならず、ほかにも多くのことで大陸と関係をもってきました。しかし、多くの国は滅亡し、あるいは戦乱を経て、もはや昔の面目を残していないのであります。当時の文物は、日本に存在するのみであります。奈良は、じつにじつに中央アジアの博物館と称してよいのであります。ですから、願わくば、ヨーロッパ人の真似ばかりせずに、精神を高潔にし、日本人たることを嫌うような風潮が愚弄であることを世に知らせ、日本人として誇れる高い文化の創造を切望してやまないのであります
最後にわたくしが奈良のみなさまに望みますところは、ここでみなさまが奮発し、率先して、日本美術復古の唱導者となってほしいことであります。この奈良の古物は、ひとり奈良という一地方の宝であるのみならず、じつに日本の宝でもあります。いや、世界においても、もはや得ることのできない貴重な宝なのであります。ゆえにわたくしは、この古物の保護保存の大任は、すなわち奈良のみなさんが尽くすべき義務であり、その義務はみなさまの大いなる栄誉でもあると思うのであります。この古物の保護保存を考えずして、いたずらに目の前の小利に惑わされてしまっていては、まことにまことに惜しいことであり、それではこの奈良の価値をまったく理解していないのと同じになってしまうのではないかと、わたくしはそう考えるのであります。
詳しくは2008年6月今月の法話を是非、お読みください。
2008年8月3日日曜日
紀寺コンコルド30周年祝賀会
昨日、奈良市少年軟式野球連盟、古都会メンバーの紀寺コンコルドが
30周年の節目を迎えられました。
山田代表のご挨拶、私の祝辞、名和氏の乾杯の音頭と進み、
奥谷監督からのご挨拶、選手の自己紹介と将来の夢、ビンゴゲーム等、とても楽しかったです。
私が特に感激させて頂いた事は、紀寺コンコルド第一期生のお子さんが、父と同じように同じチームに入って卒業された、ということです。
親から子に引き継がれて行く様を目の当たりにして、家族とは、或いは歴史とは、こういうことなんだな~。今は、まだまだ幼い選手諸君も、いつかは自分達の子供に、野球を通じて何かを伝えていくんだろうな~なんて、感慨に更けておりました。
初代はじめ歴代の監督、コーチ、保護者の皆さんのご尽力に対し、心からの敬意を表します。
奥谷監督さんには、後20年は、頑張っていただけるそうで、何卒、宜しくお願い申し上げます。
今後、皆さんが、ご健勝で、益々発展されますことを心から念じております。
第26回 七条夏祭り大会
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